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きみ比較したまう事なかれ

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2023.04.10

施術の間

きみ比較したまう事なかれ

2023.4.09付
【滋賀県甲賀市の小波津式整体施術なら】
いしやま整体サロン連載ブログ第58回
『きみ比較したまう事なかれ』

桜散る花の所は春ながら
雪ぞ降りつつ消えがてにする

    承均(そうく)法師
雲林院にて桜の花の散りける
を見て詠める

 広々とした雲林院(うりんいん)境内の光景が目に浮かぶようだと評したのは、江戸時代後期の歌人香川景樹である。花がひらひら舞い散る桜の名所、京都西郊の嵯峨大徳寺や大沢池にも近い紫野にあった雲林院では、今が春の真っ盛りだというのに、地上の落花は雪が降りしきって消えないでいるようだとつづく。全盛期を迎えた藤原北家の栄華を語る『大鏡』の冒頭は、この雲林院境内における翁の昔語りから始まる。この天台宗寺院は、もとは淳和天皇(在位823-833)の離宮であったらしいが、常康親王ののちに僧正遍照へ下賜されたらしい。出家して遍照と名乗っていたが、桓武天皇の皇孫というれっきとした皇族であって、臣籍・良岑宗貞(よしみね・むねさだ816-890)時代と変わらず、自由に御所への出入りを許されるなど待遇は破格であったようだ。だが、藤原北家の権勢の前には皇室・皇胤といえども、その立場は極めて脆弱であったようだ。

天皇御落胤皇胤たちの悲哀

 文徳天皇に紀名虎(きの・なとら)の愛娘静子が入内して、第一子として生まれた惟喬親王(これたか・しんのう844-897) や伊勢物語で著名な在原業平(825-881)といった御落胤たちとともに同時代を生きた群像の一人である。文徳天皇には藤原北家から太政大臣藤原良房の愛娘明子(あきらけいこ)染殿后が入内し、第四子として惟仁親王(のちの清和天皇)が生誕し、紀氏の母をもつ惟喬親王は皇太子になれなかった。長子継承権を断念せざるを得なかった惟喬親王を慰めたのが、ともに皇胤である僧正遍照や有原業平たちであった。皇太子→天皇としての力量をそなえていたにもかかわらず、母方の勢威で皇太子になれなかった惟喬親王は、遍照の屋敷である雲林院に閑居しながら歌道に励み、悲憤の心情をこらえて、枚方の交野(かたの)御料地渚の院、嵯峨天皇ゆかりの離宮八幡(石清水)、北摂水無瀬(みなせ)へも出向き、そこでの四季折々の風光に無聊を慰めていた。

惟喬親王伝説貴種流離譚に涙する

 大宰帥・弾正尹等の要職を経て、文徳天皇急死(858)から14年後になる貞観十四年(872)七月28歳で出家、洛北大原小野の里に籠もった。小野宮と称したというが、その後の有為転変の人生はまさしく貴種流離譚そのもので、鈴鹿山地の西麓にあたる近江国・ヤマヒルがいまも棲息する君ヶ畑蛭谷ろくろ木地師の地で、寛平九年(897)に亡くなったという伝説がのこる。現地へ行くには、名神高速道八日市ICか湖東三山スマートICから百済寺方面へ向かい、そこから細い舗装された林道を山中へ入ってゆくことになる。小椋谷木地師の里http://biwap.raindrop.jp/details1031.htmlに着くと、惟喬親王伝説に彩られた御陵や神社が目に飛び込んでくる。史実を見極めたい学究タイプではなく、伝承にロマンを感じる性質なので、それはそれとして人間としての惟喬親王伝説には大いに魅力をそそられる。藤原氏という荘園大地主、時の権力に抗えなかった悲哀が漂う。

殿上人には殿上人の悩みがある

 道真の進言による遣唐使の廃止(894)により国風文化が花開き、雅な王朝絵巻が展開した平安貴族社会に至る寸前の時代プロセスにおいて、熾烈な権力闘争が行われていたことに想いをはせてみるのも楽しい。すべては歴史上のことであり、現代人にとっては痛くも痒くもない出来事ではあるが、古人すなわち当事者の立場に立てば、豪族として生きるか死ぬかが決定されかねない重大事だった。一般庶民は「雲の上のこと殿上人のことなど」知るよしも無かった。ただたんに殿上人のうわべの華やかさにのみ目を奪われ、辛くて貧しい暮らしをしている自分たちと比較しては、その身を嘆いたり豪族貴族を羨やんだりしていたのだろう。殿上人には殿上人の悩みがあるわけで、煩悩の数は生きている限り減ることはないだろう。他者と比較する事なかれ、人は自分にないものを他者がもっていると100%羨む。それは病者であっても変わらない。

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